「神の子が罪人となる」  05.02.06
                  ルカ22:35〜46

 イエスさまの十字架の赦しの下で、歩みを進めるのが弟子たちで
あり、私たちです。
 聖書には、弱さを抱えた弟子たちの姿が繰り返し描かれます。

ペトロに対し、数時間後にはイエスさまを否認すると予告されたイエス
さまは、「それから」、弟子たちにも言われました。
 神さまからすべての必要を備えられた経験を持っているあなたたち
なのに、神さまへの信頼を見失い、財布や剣に頼らなくては不安で
いられなくなるだろう…と。
 聖書は、続けて、眠っている弟子たちの姿も描きます。祈れない姿です。
十字架にかかられる直前のイエスさまの周りには、弱さを見抜かれ、
また、情けない姿をさらす弟子たちの姿が繰り返し描かれます。
そして、そのような弟子たちの姿には、私たちの姿が映し出されています。
 そんな中、イエスさまはイザヤ書53章の言葉を引用され、「犯罪人の
一人に数えられた」との預言がイエスさまに実現するとおっしゃいます。
イザヤ書では、それは何のためかが明らかにされます。罪人の罪を負って、
多く者が正しい者とされるためです。過ちを担い、背いた者の執り成しを
するためです。そこで指し示されているのは、イエスさまの十字架のことです。
また、祈れない弟子たちの前で、イエスさまは十字架のこと(杯)を心から
祈っておられました。
 繰り返し、弟子たちの弱さ、情けなさ、背きが描かれる場面です。
 しかし同時に、繰り返しイエスさまの十字架も指し示されています。
 イエスさまの十字架の赦しがあるからこそ、「それでよい」との言葉が
出てきます。本当は、二振りの剣など何の役にも立たないのですが、
正しい者とされた弟子たちを神が養ってくださるからです。
 また、祈れない過ちは、主が十字架によって取り除いてくださるので、
いつものように、普段通り、遠慮なく、神さまに祈ってよいのです。

 
人の情けなさを十字架の赦しが包み込んでしまうことが、繰り返し、
明らかにされています。イエスさまの下で、情けなさにとどまらない
生き方がうまれます。